月を待つ。
少し雲がでてきたようですが、こんやは中秋秋の名月が見られそう。
毎年、山の薄を切ってお供えするのですが、今年はまったく穂が出ていませんでしたでした。暑かったからでしょうか。
遊兎碗に白玉団子とイチジク甘露煮。甘露煮とはいっても自家製なので甘さかなり控えめです。鉄絵の角皿に南瓜の煮たの。
朝夕はやや涼しくなったので、午前中、ロラン・バルトの「喪の日記」を読んでいます。
最愛のお母様を亡くされた、その後の2年ほどの間の短い日記です。バルトは時々プルーストを引用しますが、苦悩の深さ、切実さに共感するところが多かったのでしょう。
あるインタビューでゲイを公表していたバルトは「あなたは女性を知らないのですか」と聞かれて、「私は母を知っている」と答えていましたが、プルーストなら「母と、その母を知っている」と答えたことでしょう。
それほど無二の存在だったお母さまを亡くされた次の年の八月、芭蕉の「鹿島詣」を読んだバルトは「一撃の悟りのような優しさ幸せを実感する。喪が消えたわけではないが、やわらぎ、深まり,和解できたような。自分自身を再び見出した。」と、書いています。
おどろいて、、芭蕉の「鹿島詣」読み返してみました。
ご存じの通り、芭蕉と曾良が月を見ようと鹿島まで出かけ、仏頂づらで有名な仏頂禅師を訪ねたりなどして、俳句を詠むけれど結局、雨がちで月は良く見えなかった、そんな、ごく短い紀行文(?)です。
月はやし梢は雨をまちながら 桃青
寺に寝てまこと顔なる月見かな 桃青
などの句が記されていますが、浅はかな私には、苦悩の淵にいたバルトのいう「一撃の悟りのような」感動は、わかりませんでした。
でも、雨の月を待つ心は、喪に服する気持ちと、どこか似ているのかもしれませんね。